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羽根倉古戦場跡について

ページID:0026256 更新日:2022年9月12日更新 印刷ページ表示

羽根倉古戦場跡(はねくらこせんじょうあと)について

現在、羽根倉橋がある辺り一帯は、南北朝時代の観応2年(1351)12月19日、難波田(富士見市下南畑)城主の難波田九郎三郎(なんばたくろうさぶろう)と高麗(日高市)の高麗彦四郎経澄(こまひこしろうつねずみ)とが対戦した場所です。

当時、室町幕府では、将軍足利尊氏と弟直義との間に反目が続き、関東の武士団もそれぞれ両派に分かれ、互いに争っていました。

当初、高麗経澄は、直義方に属していて、宇都宮氏討伐のため下野(しもつけ)(栃木県)に下向中、尊氏側に寝返ることになって、直義党の本拠地鎌倉の攻略に転じ、同年同月17日、武蔵鬼窪(おにくぼ)(南埼玉郡白岡市)に兵を挙げると、鎌倉街道を一路、府中(東京都府中市)へ向かって進撃してきました。それを直義側の難波田九郎三郎がこの羽根倉の地にて迎え撃ったとされています。

羽根倉は、志木・富士見・さいたま市3市の境界辺りで、かつて荒川の渡河地点として交通の要衝でした。

合戦の結果は、難波田勢の敗北に帰し、九郎三郎をはじめ部下の多くが討死しました。

関係案内看板の設置場所

「羽根倉古戦場跡」羽根倉橋下付近
※この看板は、破損のため現在は撤去されています。


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