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開化橋(むじな橋)について
開化橋(むじな橋)について
昔、大仙寺の手前の字深町(現在の上宗岡5丁目)には、道を横切るように灌漑用水が流れており、その用水に丸太を並べて土を盛っただけの小さな橋がかかっていました。ある日、橋の下に「むじな」が住み着き長く暮らしていたことから、人々はこの橋を「むじな橋」と呼ぶようになりました。
明治31年4月に、土橋が立派な石橋に架け替えられ名前も文明開化の時代にふさわしく「開化橋」と命名されましたが、地元では愛着ある「むじな橋」と呼ばれました。
昭和になり解体撤去されましたが、撤去を惜しむ声もあり、昭和62年に元の設置場所から200メートルほど下流の総合福祉センターの北側に移築復元され、引き続き人々に愛されてきました。しかし、令和3年、県道工事に伴い解体され、現在は総合福祉センター北側駐車場にて、同時期に解体撤去された大小合併門樋と共に復元されるのを待っています。
この石橋の縁石には、小さなくぼみが何箇所か確認できます。それは、子どもたちが道端の石をひろってコツコツと叩きながら友達と待ち合わせをしたり、ままごと遊びをした跡と言われており、何世代にもわたって子どもたちが馴染み親しんだ遊び場であり、当時の素朴な遊具でもありました。
写真
開化橋(むじな橋)は、当初は土橋、明治になって石橋、解体撤去され昭和62年移築復元、令和3年解体撤去(保存中)と、地域の発展に伴い姿を変えてきました。土橋の頃と石橋に架設変更後の写真は確認されていませんが、明治時代に石橋に架け替えられた際の設計資料などは、埼玉県の公文書として見ることが出来ます(埼玉県立文書館蔵)。
昭和62年以降の移築復元
令和3年解体撤去以降
案内看板の設置場所
開化橋(むじな橋)の解体撤去に伴い、看板も撤去されました。