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三ツ子稲荷
三ツ子稲荷
安政(あんせい)年間(1854から1859まで)のある年の夏、江戸道沿いで青物等を商っていた長太郎は江戸の板橋へ仕入れに行った帰り、白子(しらこ。現在の和光市)の坂で苦痛に耐える大狐を見つけ、かわいそうにと思い家に連れ帰った。
翌朝、大狐は3匹の子を産んだが、産後の肥立(ひだ)ちと乳の出が悪く、子狐は次々と死に絶え、日ならずして親狐も死んでしまった。この死を哀れんだ長太郎夫妻は、我が家の畑の隅に狐親子を葬り、そこにお稲荷さんの祠(ほこら)を建て、3匹の子狐にちなんで正一位三ツ子稲荷大明神(しょういちいみつごいなりだいみょうじん)と名づけたという。
それが今も江戸道のわきにある三ツ子稲荷(写真)だといわれている。(本町3丁目付近の伝説)