江戸道が、昭和新道に突き当たる手前に、昔は宮戸方面に行く急な坂道があった。
天保(てんぽう)(1830から1843まで)の頃のある年の夏、この坂の下り口の茶店に1人の若い武士が駈(か)け込み、水で刀の柄(つか)をぬらし、坂を下っていった。その後、深編(ふかあみがさ)をかぶった足の不自由な浪人が同じ坂を下ったが、若い武士と斬(き)り合いになり、足の不自由な浪人が斬り倒された。茶店の主人の知らせで名主が来た時には若い武士の姿は無く、血の海の中で浪人は死んでいた。夕方近くに検死(けんし)の役人が来て「上からの指図があるまで、どこかの寺へ埋めておけ。」の命令したので、浪人の亡骸(なきがら)は東明寺(とうみょうじ)(本町1丁目)の無縁墓地に埋葬された。この一件は、越後(えちご)新発田(しばた)藩士と名乗る若侍(わかざむらい)の申し出で敵討(かたきう)ちだとわかっただけで、浪人の素性も敵討ちの内容も知られていないが、その後この坂を「浪人坂」と呼ぶようになった。(本町3丁目付近の伝説)

  浪人坂   東明寺

 
 
 

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