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志木市の歴史

ページID:0002602 更新日:2022年9月12日更新 印刷ページ表示

志木市の歴史

志木市の自然環境

志木市は、市の中央を流れる新河岸川によって大きく台地と低地に分けられ、市の東北部を占める宗岡地区は、標高5から6m、幅5kmの平坦で広大な荒川の沖積地であり、西南部にあたる志木地区は武蔵野台地の突端にあたり、志木駅付近で標高20m、志木小学校付近で15m、宝幢寺裏付近で12m、市場坂上付近で10mというように東北に向かって緩やかな傾斜を見せています。

志木地区の歴史

新羅郡(しらぎぐん)

志木地区は、明治29年から昭和45年10月26日に市制を布くまでの期間は、北足立郡に属していましたが、明治29年以前は新座郡(にいくらぐん、享和3年からは、にいざぐん)に属していました。
新座郡の前身である新羅郡(しらぎぐん)は、天平宝宇2年(758)に渡来新羅人74人のために新設された郡で、現在の和光市にあたる志木郷と新座市にほぼ推定されている余戸(あまるべ)郷の2郷を擁するのみの小さな郡でした。
当時渡来人を受け入れた場所は郡と郡の境の閑地(未開発地)が多かったとされいること、また、新羅郡を「武蔵国閑地」に設置したという記述が『続日本記』に見られることから、志木地区周辺も近隣の入間郡や豊島郡などに比べると未開発地であったものと思われます。

舘(たて)

その後、平安期に入ると開発の遅れていたこの地区も徐々に開発が進む様になり、平安末期頃になると東北地方を柳瀬川によって限られているという防御上最高の地理的位置が買われてか、伝説上の豪族田面長者藤原長勝(たのものちょうじゃふじわらのおさかつまたは、ながかつ)がこの地に館を構えこの地域を支配していたといわれ、今でも残る「館(たて)」という地名は、現在の志木第三小学校付近にあったと目されているこの長勝の居館に由来するといわれています。
また、10世紀頃の武蔵国に置かれていた「立野の牧」という勅旨牧(皇室の馬を飼育する牧場)がその後、立村になり、さらに文字を変えて「舘村」になったという説もありますが、この説を最初に唱えたのが斎藤鶴磯(さいとうかくき)であり、その著書の『武蔵野話』で「今 舘村、引又村の辺、水浜にして馬を牧(かふ)地勢なり。舘村は立野の駒立の馬など古歌に詠みし地なるべし。」と説いています。
舘之郷という郷名は遅くとも中世後期には生まれていたものと推測されていますが、今日残る中世の文献や文書にはこれを裏付けるものはありません。しかしながら、近世初期の文書や石仏には散見されているため、少なくとも中世にはさかのぼれる地名であると考えられています。
この舘之郷には、舘本村と大塚村の2村が含まれていたと考えられています。
舘之郷は、近世に入ると古い村の消滅と新しい村の誕生に加えて隣接の入間郡に編入する村も現れるなど様変わりを見せるようになります。
舘之郷の中で見落とせないのは、中世後期に築城されたと思われる柏ノ城です。柏ノ城は、関東管領山内上杉家の重臣大石氏一族の戦国初期からの居館といわれ、現在の志木第三小学校付近に本丸があったとされています。『新編武蔵国風土記稿』によると天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原城攻略時に攻め滅ぼされたといわれています。昭和60年に行われた発掘調査では柏ノ城のものと思われる大堀が出土し、その存在が一層明らかになりました。

引又(ひきまた)

近世になって在方町として発展していく引または、もともとは舘本村の住民が耕作地として開発した新田(引跨新田と呼ばれていた)であり、引又に住民が定住したのは天正4年(1576)のことでした。舘本村の一部であった引又組を旗本新見正信が知行をし始める寛永2年(1625)になると引または親村から分離独立し、引又村となります。
また、同じ舘本村の一部であった針ケ谷組も元禄5年(1692)に分離独立するとともに入間郡に編入されました。このことは元来、柳瀬川が入間郡と新座郡の境界となっているために柳瀬川の対岸に突出していた地区を整理したものと考えられています。
なお、引または、曳跨と書くのが正しいという説もあります。この説によれば昔から船が新河岸川を溯上する際、船の水手が綱を肩にかけて川縁を川上へと船を曳いて登るにあたって、柳瀬川との合流地点を綱で曳きながら跨ぐところから曳跨という地名が生まれたということですが、東明寺にある寛文7年(1667)の庚申供養地蔵(市指定文化財)に刻まれている「蟇俣」の文字が示しているように、新河岸川と柳瀬川の合流地点付近の地形が蟇蛙(ひきがえる)のはいつくばった形に似ているところからきていると見た方が自然であると思われます。

 

東明寺の庚申供養地蔵(市指定文化財)

大塚(おおつか)

また、大塚という地名は、一般的には古墳が多くあったところから起こった地名とされており、古墳が多くあったところから「多塚」といわれていたので大塚に変わったとも伝えられています。
文明18年(1486)の頃、修験道本山派の本山、京都聖護院の門跡 道興准后(どうこうじゅごう)がこの付近を巡歴したときの道中記『廻国雑記』のなかで「佐西をたちて武州大塚の十玉が所へまかりける」と記しています。
この大塚の地名の比定について長い間論議されていましたが、最近では「十玉谷」「地獄谷」の地名と共に志木市の大塚であるという説が有力となっています。
このように村として古い歴史を誇っていた大塚村も元禄年間(1688から1704)には本村に吸収されてしまったらしく大塚村の存在を確認できる最後の資料としては、元禄5年(1692)の銘の入った長勝院の版鐘(市指定文化財)があり、これ以後は大塚村 の存在を証明する文書、碑文、銘文は現存していません。

 

長勝院の版鐘(市指定文化財)

中野(なかの)

中野組は、柏ノ城落城後に開発された新田で、寛永二十年(1651)に旗本大河内兵左衛門が知行するに及んで、中野村として分離、独立していきました。
その後、中野村は寛政12年(1800)に名主伝右衛門が病死すると村方一同が養子の藤右衛門にその跡を継いでもらえるように頼みましたが、断られてしまったため、舘本村の名主宮原竜左衛門にその役を預かってもらうことにしました。その時の約束では、藤右衛門が将来名主を引き受けることになればいつでも中野側にその役を返すということでしたが、その後70数年間にわたり独自の名主をたてることなく、舘本村の名主の下に一人組頭を置くにとどまりました。
従って、舘本村、中野、引又を包括する舘村三組という表現は、その期間中も一貫して使用されましたが、三組名を列記する場合は、舘村、中野、引又町と表記されるのが通例で、中野には村はつけられてはいませんでした。逆に中野の住民が役所に提出する文書には自分の村を舘村中野組、舘村字中野、舘村中野と記すことが多かったようです。
このように、寛政12年(1800)以降の中野は、実質的な意味で独自の行政単位の性格を失っていました。しかし、いつ舘村に吸収、統合されたかは定かではありません。
なお、中野という地名は、柏ノ城の城主大石信濃守の子息大石四郎の住んでいた跡地が四郎親子の滅却により芝野となってしまいましたが、城主子息の屋敷跡とあっては村人たちも勝手に自分たちの屋敷にすることもできないため、中野組を開発した際、その芝野を真ん中にして周囲の東西北の三方を開墾して住み着き、真ん中に芝野を残したことから中野となったという説があります。

舘本村と引又宿との合併から志木宿の誕生から

明治7年(1874)に舘本村と引又宿が合併しましたが、この合併は難航を極めました。舘本村からすれば引または、元来舘本村の枝郷にすぎないのだから合併後の村名は当然舘村であるべきだと主張しましたが、市場、河岸場、宿場として繁栄し、経済的にも親村を遙かに超えていた引又宿側では、こうした経済力を背景に、折角国内各地に引又の名前で売り込んでいたのに他の名称に変更となっては営業がやりにくくなって困るという事情もあり、舘村との合併に際しては引又の地名を新町名とすべしという意見が圧倒的でした。 そこで、県庁でも仕方なく、どちらにも関係なく、昔その近くに志木郷という郷名があったのを幸いとして「志木宿」と名付けました。すると、舘村の方では志木(シキ)というのは引又(ヒキマタ)のヒキに音が近いと怒り、県庁へ押しかけていって談判に及びました。そこで、県庁の役人がそれは国史(コクシ)によるものだと弁解したところ、舘村の人たちは引又宿には穀商が多いので、穀師(コクシ)によるなどというのに違いないといい、一層怒り出しました。ところがだんだん話しあっているうちに、コクシとは国史のことだということがわかり誤解が解けて笑って引き揚げていったというエピソードが伝わっています。
このような難産の末「志木宿」という新しい町名が誕生しましたが、長い間慣れ親しんできた名称をすぐに捨てられなかったせいもあってか、ヒキマタとシキの合成語である「志木俣」という呼称はそれから半世紀以上も用いられており、県立文書館所蔵の「河川調」という文書の中にも、「志木俣河岸」の名が明治20年代まで記されています。

宗岡地区の歴史

入間郡(いるまぐん)

宗岡地区が属していた入間郡は、天平年間(729から748)に創建された武蔵国の国分寺の献進瓦にもその名が見えるほどに歴史が古い郡で、平安初期に編纂された「和名抄」には、入間郡の中に麻羽・大家・郡家・高階・安刀・山田・広瀬・余戸の各郷が置かれていたと記されていますが、現在の宗岡地区がどの郷に属していたかは定かではありません。

宗岡(むねおか)

宗岡という地名が文献に姿を現すのは、室町中期の寛正4年(1463)4月に室町幕府が対立していた足利成氏一派を抑えるため、赤塚(現在の東京都板橋区赤塚)に駐在していた鹿王院の雑掌(領有地の管理人)に対して、それまで仙波対馬守分となっていた宗岡郷に入部した長田弥九郎清仲への協力を命じている『鹿王院文書』が初めてです。
続いて、文明18から19年(1486から1487)に関東を巡遊した本山派修験の総帥道興准后がその紀行文『廻国雑記』の中で「夕烟あらそう暮を見せてけり我が家々の宗岡の宿」と詠っており、さらに後北条氏が一門や家臣に対して軍役等の諸役を割り当てるための基本台帳として永禄2年(1559)に作成した『小田原衆所領役帳』にも、難波田与太郎が棟岡に30貫文の役高をもっていたことが記されています。
このように室町中期以降、宗岡の地名がにわかにクローズアップされてきます。
近世に入ってしばらくすると、宗岡郷は上宗岡・下宗岡の2村に分かれますが、上下に挟まれて最も開発が遅れ、松平信綱が領有した頃でもまだ新田村とよばれていた地区がやがて中宗岡村となり、宗岡地区は上・中・下の三村鼎立時代に入ることになり、この状態は明治維新頃まで続くことになります。
三村に分離・独立した後は、もちろんそれぞれの村に名主・組頭・百姓代といった村役人が別個におかれていましたが、『新編武蔵国風土記稿』にも明らかなように、外部からは三村ではなく一村として扱われていたようであり、助郷も宗岡村として一括して割り当てられたものを石高に応じてさらに三村に分けて割り当てていたようです。
なお、宗岡地区三村が一村に再統合されていくのは、明治維新後のことです。

宗岡の地名の由来

宗岡という地名の起源については領主説と地形説とがありますが、いずれも定説となるまでにはいたっていません。

  1. 領主説 
    宗岡氏を称したとされる豪族がこの地を領有していたためにその名が起こったというものですが、中世以前に宗岡氏という豪族がこの地を領有していたことは確認されてはおらず、難波田氏のように地名を姓氏とすることは多くてもその逆はまれであることから見ても十分に納得できる説とは言い難い説です。
  2. 地形説
    池ノ内好次郎氏による「奥東京湾の終末期に入間川、新河岸川、柳瀬川の合流点にできた三角洲がちょうど人の寝た胸の隆起をおもわせてムネオカと呼んだのが宗岡の地名の起こりであろう」とする説と、「昔、秋ケ瀬から精進場まで土手のように高かった形状が家でいう屋根棟と同じだということから村の名を棟岡とした」という市ノ瀬佐市郎氏の説などがあります。

野火止用水といろは桶

昭和40年まで本町1から2丁目の市場通りの道路中央を野火止用水が流れていました。この用水は智恵伊豆といわれた川越城主 松平伊豆守信綱(まつだいらいずのかみ のぶつな)が自領である野火止台地の灌漑のため開削した用水のため「伊豆殿堀」とも呼ばれていました。
信綱は川越城主となって14年目の承応2年(1653)に領内の農民54軒を招致して野火止用水の開削に踏み切ました。
ところが、このあたりは高台のため明治になってからでも井戸を掘るのに24mも掘り下げなければならないほどで、ましてや灌漑用水などには縁のないところでした。
そのころ江戸市民に飲料水を送るため、玉川上水の工事は始まっていました。
信綱はこの水を小川村(現 東京都小平市)から分水することに着目し、この難工事を家臣の安松金右衛門に命じ、金右衛門は信綱の期待に応え、承応4年(1655)3月、わずか40日の短期間で完成させました。
野火止用水の開通によって、取り入れ口の小川村から新座郡引又村(現志木市)までの約24kmの沿岸は開発が進み、農業生産力が大いに向上しました。野火止用水はまた、灌漑用水としてだけではなく、飲料水としても長い間利用されました。
用水は開通後しばらくは新河岸川に流れ込んでいましたが、対岸の宗岡地区の灌漑用水にも利用しようと、寛文2年(1662)に宗岡の地頭岡部左兵衛(おかべ さひょうえ)が家臣の白井武左衛門(しらい ぶざえもん)に命じ巨大な架け樋を造らせました。用水はこの樋で新河岸川を渡り、宗岡地区の田畑をも潤すことになりました。
樋は船の通行を妨げないようにするため、川面から約4から5mも高い所に架けられ、 48個の木樋をつなぎ合わせてあることから、「いろは樋」(いろはどい)と名付けられました。この樋は全長230mにも及び、江戸時代には百間樋(ひゃっけんどい)の名で 地域住民に親しまれたといわれています。

 

いろは樋絵図(市指定文化財)

新河岸川運行と引又河岸

荒川の支流の新河岸川は古くは内川と呼ばれていました。ところが寛永15年(1638)1月に川越に大火があり、日本三大東照宮の一つである仙波東照宮が焼失すると、これを復旧するため江戸城紅葉山御殿を分解して移築することになり、その時、当時古市場(現川越市)ないしその少し上流あたりまで水運がおこなわれていた内川が着目され、現在の新河岸の地点まで遊水池をつないだり、掘削したりして新水路と河岸場を作りました。この河岸場は新しく作られた河岸場のため新河岸と呼ばれ、新河岸までの舟運が盛んになるといつしか川の名前も新河岸川と呼ばれるようになりました。
武蔵野台地の北東縁を流れる水量豊富な全長約30里(約120km)にも及ぶこの川の沿岸には、数多くの河岸場が設けられました。その数は、河の口(現和光市)までに23カ所、荒川に合流してから浅草花川戸(現東京都台東区)までの荒川筋に16カ所余りに及びました。
数ある河岸場の中でも特に引又河岸(明治7年以降は志木河岸)は後背地の広さと集散する物資の量の点で群を抜いていました。それは、引又の地が経済、交通上の要衝の地でもあったためでした。
廻漕問屋も寛永年間(1624から44)には三上家(下の問屋)が、明暦2年(1656・一説には元禄年間)には井下田家(上の問屋)がそれぞれ創業しています。高須家は、明治13から14年頃に三上家が廃業した後、井下田家と共に引又河岸で廻漕業務にあたるようになりました。
隆盛を極めた新河岸川舟運も大正10年からの河川改修により水位が低下し、舟の航行が著しく困難となったため、昭和6年に県から通船停止令が出され、ここに300年以上にもわたる物資輸送の役割を終えることになったのです。